好きなことしか好きじゃない。

~空気は読めない~

他人の「好き」は面白い

メレ山メレ子さんの「ときめき昆虫学」を読み終えた。

何と言うか・・・とてもとてもウキウキした。

メレ山メレ子さんやあの本に登場する「好き」という気持ちが溢れていて、文字をとおしてそこに触れるのが、本当に楽しかった。

好きという気持ちと、損得関係のない気持ちと、自分の好きが絶滅しないように行動する強さと。

それが、なんとも読んでいて楽しくてワクワクした。
大人になっても全力で好きなことを追いかけて、夢中になって、仲間と遊ぶ。
そんな様子がなんとも楽しくて。

なんか、なんか。

何もない私なんだけど、自分も今から何か出来るんじゃないかな?!って言う気持ちがムクムク湧いて来て、それがとても自分の未来に明かりを灯したようで楽しかった。

それが、「お金を産む」事で無くても。

という事で。

私の元夫は、「全てがビジネスに繋がるかどうか」という視点で生きていた。

私が好きで夢中になっている事に、「それは、お金に繋がるのか?」と聞いた。「それはお金につながらなくても私は好きだ」という気持ちを共感してもらえる事は難しかった。

自分の周囲に居る人が、全て自分のビジネスにお金を出す存在であると信じて疑わない思想や、自分のビジネスにお金を出さない人とは付き合わないという確固たる信念を持った元夫は、自分が取り扱っていた商材を私の知人・友人に「売ってきて」と要求したし、私は、断って来た。

お金を産まない趣味を、(と言っても、ほとんどの趣味はお金を吸い取ってしまう存在なんだけども、)認めない結婚生活を10年ほど過ごして、なんとなく、「家庭の主婦が趣味にお金を使う事に対する罪悪感」というものが私にじんわりと張り付いていたみたい。

なので、ただ好きで書いているブログもビジネスに繋げなきゃいけない気がして、キラキラ女子を目指している風で必死だったし、背伸びをして書いていた気がする。
「気付き」とか「学び」とか「感謝」とかをふんだんに盛り込んだブログを書いていたな、と。

そういうのが全部終わって(離婚して)、自分の好きな事をただ書き綴る、ひたすら自分が気持よくなるために書き綴るブログをこうして始める事が出来て、人の目を気にせずに自分の心に沸き起こった物を放流する作業というのは、結果的に何にもならないけれどとても楽しくて心地よい事が分かった。

これから、自分の周りには「自分が心地よくてほっこりする」物事を置いて行こうな、と思っているのだ。

もちろん誰かのどこかに働きかけられるような人には憧れるけれど、私が「ほぇ~!楽しそうやな」と思う人たちは、本当に楽しそうで、その物事が好きで、っていうのが溢れてる。

それを、私は見るのが好きで、そういう好きに触れて、「わ。私も実はコレが好きやった」とか「あれ?私ってこれが好きじゃない?」とか、そうやってまた自分の内側が耕されていく感じがする。

私もーーー!!昆虫の接写写真を撮影したいなぁ~。

近所にいっぱい見応えがある虫・鳥・花が居るんだよ~~!!

承認欲求と自己顕示欲と

SNSに何を書くのか。

ネットと自分のつきあい方を今後どうして行こうか。

ここ2年ほど、そんな事を真剣に考えている。

以前は、自分の中に沸き起こる負の感情を叩きつける事、自分の逃げ場と共感を得るために書いて来た。それは誰かの役に立つという事を度外視して、自分の気持ちの昇華だけを考えた行為だった。

そういう時期を経て、自分の思う事を書き綴ることに、自分が丸裸になる不安と、自分をネットの世界以外の場所で知っている誰かに、自分が表に出さない部分を見られる恐怖と、自分の内面を素直に書き綴りたいという気持ちと戦っている。

今は、私と、ネット世界でだけイキイキと出来るネット人格の私とが、融合していないのだ。

リアルな知り合いに向けて書く内容と、私を知らない人に向けて書く内容が、同じアカウントとして書けないという問題。

自分の日々を綴った所で、誰も共感せず、何も面白くない。
という現実と、それでも、誰に話しかけることなく、一人垂れ流したいという欲求。

垂れ流した内容を、知人には見られたくないという恐怖。

それらを一つのアカウントに融合しようとして、やっぱり怖くて止めて・・・。そんな事をこの2年、繰り返していた。

自分の内側を日常を書く事と、自分の外側に目を向けて書く事と、どんな軸にしようか、どうしたいのか、自分とSNSとのつきあい方を考えながら過ごしているし、まだ固まっていない。

色んな人のスタンス(子育て日記、昆虫について、美活について、料理について、ペットについて・・・etc)を見て、刺激を受けて、影響を受けて、真似てみようと思っては、また違う素敵に出会って揺れて、結局定まらず・・・みたいな事の繰り返し。

それでも「書きたい」という気持ちだけは消えず、今でも、楽しい文章にワクワクしたり元気を貰ったり、共感しまくってうなずきまくっている私は、自分も何かを発信したいと夢をもっているのだ。

自分の好きな事は何だろう。
自分が書きたい事は何だろう。
日々の日記を今も垂れ流したいと思っているのか?
何か特定のテーマが必要か?

そんな事をぐるぐる考えながら、今日も結局思った事を脳内から直接指先へ垂れ流してしまっているのである。

ちなみに、私は、自分がパソコンの画面に向かってブログを書いている姿を家族に見られるのがものすごく嫌で、家族が留守の間、寝ている間にこっそりやっているのだけれど。それは、自分の本音をむき出しに、脳内が垂れ流しになるモノを、たとえ家族でも見られたくないと思っているのだ。

そのくせ、たくさんの人に読まれることに対する憧れみたいなものがあって、自分の矛盾した気持ちを持て余していたりする。

別に悪口を書いたりしている訳ではないんだけれども、自分の剥き出しの部分って弱くて脆いので怖いっていうのもあるんだろうなぁと。

誰かに認められたい、繋がりたい、共感されいたい、自分の事を知ってもらいたい。

SNSはそんな気持ちを昇華させてくれるツールだから、手放せないのだと思う。

スカンツて。

朝の情報番組で、「今年の春に流行するファッションアイテム」という特集を目にしたのですが。

スカンツ。

スカートとパンツが合体してスカンツ。
キュロットとどう違うの?
ガウチョパンツとどう違うの?

オシャレの道を踏み外している私にはサッパリ分からない。

というか、オシャレさんは、去年ガウチョパンツを買って、また今年もスカンツを買うの?タンスやクローゼットに、毎年毎年のアイテムを増やしていって、どんどん捨てていくの?

メイク道具も、「去年はスモーキーカラーが流行りましたが、今年はコチラの・・・」みたいな情報を見ると、「え?去年のメイク道具、全然減ってないけど、それどうすんの?」って思う。

毎年毎年、色んな流行が盛り上がっては消えて行くなかで、私はその大きな流れを対岸から眺めているだけなのだ。

それは、毎年流行りの洋服を、メイク道具を買い、ワンシーズンで次へ・・・という懐の余裕が無いことと、オシャレに対してあまり興味が無いというので、流行と無縁の所で生きている。

さて、そんな私も、「おしゃれな人になりたいなぁ」という気持ちが無い訳ではないのだ。

それは、流行と関係ない所で、自分の好きな洋服を着たいという気持ち。

今着ている洋服達は、「身の丈にあった洋服」たち。
洗濯が出来て、安価で、汚れても気にならなくて、身体のラインを隠してくれるモノ。

だけど、「自分が好きな洋服」とは実はちょっとズレている。
私はいわゆる「コンサバ系」の洋服が好きなようで。
「可愛いな」と思うスタイルが無い訳ではない。
だけど、それは買えない金額なのだ。ゼロがひとつ多かったり、家で洗濯が出来なかったりするのだ。あと、細身の人だから似合うっていうのもあるかなぁ。

今後の人生の目標は、

自分の着たい洋服を買う

という事。自分の好きなブランドやお店を見つけたいと思う。そして、欲しい服が着られる身体も欲しい。お金ももちろん。

動きやすくて、生地が気持よくて、ラインが美しくて、程よい値段で、自宅で洗濯ができて、下着や肌が透けない洋服。

これが、今、私が求めている条件。

足りなすぎて

Twitterを読んでいると、私が今まで持っていた価値観はよく「間違っている」と流れてくることがある。

今まで自分の中で「常識」だと思っていた価値観、「それが普通」と思っている価値観。

それが、自分が想像していなかった立場の人を苦しめ、自分が気付かないうちに自分を軽んじていたり。

特に、「子供」に対して「大人なら守らなければならない」という意識が私には希薄なようで、Twitterで炎上した意見を見た時は、「そうか・・・。そんな風に思う人が居るんか」と思ったし、それに対する噴き出すような反対意見を目にしては、「あぁ・・・。そうか。本来はそういうものなんか」と思ったし。

Twitterをやっていて、一事が万事そんな感じである。

強く表明された意見に流される、そのまんま受け止めてしたがってしまう。
実にマスコミに踊らされる馬鹿な国民の模範的な人物像そのままなのだ。

なので、自分を意見を口にするのが非常に怖い。
考えが足りず、物を知らず、想像力が欠如している私が、何かに物凄く失礼な事を言っていたり、誰かを無意識に差別していたりしていないかという事。

そういう事がTwitterを読むようになってものすごく感じるようになった。

今私が紡ぐ言葉や思考は、今まで自分が生きてきて、何かに影響を受けて、親から受け継いだものも含め、「今の私の精一杯の考え」であって、これから色んな意見を目にして吸収して変化していくものである。

とここに改めて書いておこうと思う。

既に考え方が成熟し、正しく物事を判断して、冷静に分析出来る人って本当に凄いなぁって。丁寧な言葉と明確な主張。自分に無かった価値観や考え方を目にするたびに、みんな、すごいんだなぁ・・・と日々感じている。

軸が無く、色んな意見にバタバタと振り回される自分ったら、本当に情けないな・・・と思いながら、それでも、なんだか、素敵な人の言葉を栄養にしながら考え方を柔軟に多角的にしていけたらなぁ・・・と思う。

今はまだ、私は考えが足りなすぎて、想像力が足りなすぎて、気持ちを言葉にする力が足りなすぎて、自分の思いを発信したり、感じる違和感に対して冷静に分析する事が出来ない。

今までTwitterをやって来たけれど、このアカウントになって、自分のTLが、今までのものと違っていて非常に自分にとって刺激になって、読んでいて楽しいなと思う。

 

昆虫を見るのが好きだけど触れません。

昆虫を見つけると、じっと見るのが好きです。

住んでいるところでは、カブトムシやタマムシが、庭の木に遊びに来たりする環境で。コドモは虫が全然ダメで、義実家にカブトムシが遊びに来ても「へぇ・・・」みたいな反応で、もっと・・・こう・・・ワッフー!!!みたいな物が・・・欲しいんやで。

私が幼少の頃は、近所で昆虫採集をする子供でしたが、思春期を経て、虫に触る事は苦手になりました。

だけど、テレビの特集で昆虫の生態なんかを放送しているのを見るのが好きだったし、コドモがまだ小さい頃は昆虫図鑑や昆虫の絵本も借りては二人で並んで読んでおりました。

大人になって改めて図鑑を見たら、ずっと「ハチ」だと思っていた「オオスカシバ」が蛾の仲間だと知って驚愕したり、面白い巣を作るハチを知ったり、実際に触れる事は出来ないけれど、情報に触れ続けている。

実際、私の中で珍しい昆虫に出会ったら、嬉しくて写真をSNSにアップしたりもするけれど、世の中の多くの人は昆虫写真を見る事が苦手な人が多く、そうした行為は”配慮されるべき行動”で、「好きだ!!見て欲しい~!!」でアップしてはいけないという暗黙のルールがあるみたいで。

だけどそれは、私が関わった狭い世界の女の子たちのルールだった。狭い世界と縁が切れて、広い世界を覗いてみたら、もう、すっごいカッコいい昆虫の写真をバンバンアップしている虫好きの人たちがたくさん居て。

日本に居たら見ることが出来ない派手な柄だったり色だったりの珍しい昆虫写真に興奮している。

そして、メレ山メレ子さんの存在を知り、今「ときめき昆虫学」を読んでいる。

 

ときめき昆虫学

ときめき昆虫学

 

 楽しい・・・。

メレ山メレ子さん、ものすごい虫好きなのかと思ったら、私と同じように思春期に虫好き熱が一度引いた様子も書かれていて、丸山先生みたいに突き抜けた昆虫少年だったわけじゃないんだ~っていう親近感が・・・勝手に。

今後は、小鳥と昆虫の写真を撮影するべく、そういうカメラが欲しくて仕方ない私。スマホみたいに手軽にいつも持ち運んで「見つけた!!パシャリ!!」みたいなフォトライフをしたいなぁ・・・とぼんやりと。

私が好きなモノを嫌いと言う人が居て、私が嫌いなモノを好きと言う人が居て。
私は、自分の好きが周囲から受け入れられないと思って、「虫の写真とかアップして気持ち悪い!」とか言われても、「あぁ、苦手だったんだな。もうアップするのやめよう」と思って過ごして来たけれど、虫が好きな人たちが私の周りに居なかっただけで、ちょっと顔を上げれば世界はぐーんと広がった。

それが、リアルではなくてネットの世界だったとしても、私は自分の好きを「オカシイ」「気持ち悪い」と責められる現実よりも、ネットの方が居心地が良いと感じてしまう。

ネットがあって、ホントに良かったなぁ・・・。

 

去年、自宅の前の道に居た、タマムシ

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小学3年生の時に、椿の木の中に見つけたのが初めてのタマムシとの出逢い。
それから、全然目にしていなくて、図鑑とかでしか見ていなかったのに・・・こんな道路に・・・居るやないか・・?!

図鑑では「森の宝物」って書かれているタマムシを、こんなの無造作に道路で発見した時は感動してしまった。

改めて、色んな昆虫を見つけて写真に収めたいな。これからは、そういう事を素直に楽しめる人生を送ろうと思う。

「たい」「たくない」「安い」「高い」を基準に食べている。

コドモが私の実家へ行く時に、お昼ごはんにカップラーメンを持参して行った。

帰宅してコドモが言うには、
「おばあちゃんが”こんな身体に悪いもん食べたらあかん”ってご飯作ってくれた」
と報告が。

あぁ・・・母らしいな、と。

母は「手作り最強主義」だし「手間暇が一番主義」なので、私がやっている家事はおままごとみたいなモンなんだろうなぁ~と。

もちろん、手間暇かけた栄養満点の食事をコドモに食べさせてくれた事はとてもありがたいのだけれど、付け加える言葉が・・・なぁ・・・と思ってしまった。

 私がスピリチュアルな内容に傾倒していた頃、周囲がどんどん
「身体にいいからコレを食べる」
「身体に悪いからコレは食べない」
という宣言をしだすようになって、そういう人たちが周りに増えたように感じる時期があった。

私は・・・と言えば、「納豆を食べると髪の毛がツヤツヤするよ」と聞けば、買い物の時に「あ、納豆買おうか」ぐらいは思うけれど、「これは食べてはダメ」なんて事は思わないタイプで。

日本の流通に乗っている物は基本信頼している

というのが私のスタンスで、食べる食べないは、「食べたい」「食べたくない」「安いから買う」「高いから買えない」が軸になっているのです。

あとは、「毎日同じものを一生食べ続ける訳ではないから」という気持ち。
どんな食材だって”過ぎる”と身体には悪くなるんでしょ?ぐらいで。

なので、食にすごいこだわりを持って特定の食材を排除して生きている人とは、一緒に食事をするのはちょっとしんどいだろうな、と思う。でも、付き合えないか、と言うと、自分の主張を他人に押し付けず、自分の中のルールを楽しく消化している人なら、一定の距離を持って付き合っていけるんじゃないかなぁ・・・と。

ただ、自分が「コレ食べた!美味しかった!」なんて言う画像をアップしたら、
「○○は身体に悪いからできれば▼▼に変えた方がいいよ♪」
なんて善意でコメントしてくる人とは「うっせ。」と思って距離は取りたい。

あ、これはお互いに、だろうな。

嫌いとハッキリ言えなくて

読み物としてのTwitterライフを楽しんでいると、コチラのツィート流れてきました。

これ、私の事だなぁ・・・と。
特に、自分がとても好きだった人を嫌いになった場合、自分の主義主張や軸を基に、全く違う軸で生きている人に対して、「あの人のやっている事はおかしい」「あの人は馬鹿だ」なんて事を言っていたけれど、自分の価値観と似た人たちから離れると、自分が嫌だと言っている事が「正解」になっていたりして。

法律じゃなかったら、人それぞれの「○」「☓」があるんだよなぁと思い知った次第です。

なので、声高に自分の主張をぶちまけている人を見ると、自分の気持ちを冷静にハッキリと明確に打ち出せる強さをとても眩しく素敵だな・・・と思うし、違う意見の人と戦える文字を持っているのだなぁ・・・と思う。

Twitterは、いろんな人の意見を自分の中に取り入れるツールであり、自分が言葉に出来ずにただ「不快」に感じている事を実にスッキリ明確に文字になっているのを見るとものすごく気持ち良くて、「そうそう!!!!そそそそそうそうそうそう!!!!」ってなって嬉しくなるっていうのがあって、私にとっては欠かせないツールとなっております。

加えて、勝手にフォローさせてもらっている人が紹介してくれる本やブログなどを通じて、新しく興味が広がったりするのも楽しくて・・・♥

以前職場で、
「私、Twitterとかやらないんです~。あれやったら、なんか、一線超えたっぽくないですか?そんな、一般人の私生活とか興味ない~」
って言ってる同僚が居たのですが、

「えーーー!!めっちゃ楽しいのに!!!そんな風に考える人も居るんか!!!」
と思って驚いてしまったし、この人とは仲良くなれないと思ったし、自分がTwitterを楽しんでいる事を話す事も無かった。

楽しいよ?Twitter

とは言え、まっすぐに悪意をぶつけられるというのは結構こたえるなぁと実感しています。

去年は、
「実はずーーーっと大嫌いだったの。○○(私がしているあんな事やこんな事)とか、ほんと気持ち悪い。きっと誰からも嫌われてると思うよ。」
というメールを貰って縁が切れた人が居たんですが、こたえました。

私は、その人のことが「だんだん合わなくなってきたな。話している事が楽しく感じなくなってきたな」程度だったので、その感情の差が。

でも、そんな風にぶつけられる人は気持ちいいんだろうな。
それでスッキリして、それで忘れられるんだろうな。

言われた方は、ものすごく凹むんだけど、あえて凹まそうと思って「最大限傷つく言葉を選んでわざわざ投げつけている」ので、相手が思った通りになっていると思う。

ちょっと仮面かぶって背伸びしたら人とつるむ事は出来るという事は昔から知っていたし、そうやって擬態して過ごして来たんだけれど、そういうのをやめていこうかな、と思って、自分が自分のまま素直に過ごしていると、人を苛立たせてしまう事を学んだ。

そんな訳で、今は、素直にそのまんま過ごすために家族以外は一人で居る時間を過ごしているのだけれど。ネットを見たり、図書館で借りてきた本を読んだり、それはそれで・・・とても楽しかったりする。

『自信のない部屋へようこそ』読了。

今週のお題「わたしの部屋」

ブログチャレンジの一つ、「今週のお題にチャレンジしよう」が、たまたま「わたしの部屋」だったのは、先ほどコチラの本⇊

 

 

自信のない部屋へようこそ

自信のない部屋へようこそ

 

 を読み終わった私にはうってつけのお題なんじゃないかなって。

私は幼少の頃、7人家族で団地3部屋に住んで居ました。
よって、「自分の部屋」は無かった。部屋どころか、一人になれる場所が無く、いつも家族の誰かを感じながら生活しておりました。

7人の生活を父一人が支えて居たので、もちろんド貧乏でしたし、母はその頃父の母親の介護と4人の子供の育児があったので働ける状態では無く。

おやつにパンの耳をかじったり、私の洋服は8つ、9つ上の姉のおさがりばっかりで、子供のくせに妙に年齢に合っていない洋服を来ていました。

私は、ずっとずっと洋服や部屋のカーテンやタオルなどは、自分の意志で何とか出来るものだという意識を持てなかったのです。

なので、結婚してもカーテンやテーブルなどが選べるようになっても、「使えればいい」「いただけるんであればそれで十分」みたいな気持ちでずっと生きて来ていました。

インテリアを揃えたり、雑貨を飾ったり・・・そういう意識が全く無いのです。

たとえそうであっても、せめて整理整頓が出来る子だったら、もっと雑然の中でも清潔感はあったろうに・・・私と言えば、掃除よりもネット、整理整頓よりもテレビを優先してしまうだらけた性格なものだから、家の中はいつも汚くて、誰かを呼べる・SNSに写真をあげられるような状態では無い・・・という人生をずっと歩いています。
(現在進行形)

ですが、そういう自分を、「嫌だ!!!変わりたい!!!」と思っている自分も居るのです。

ずっと、ずっと、オシャレで清潔で整理整頓が得意で丁寧に生きる女になりたい・・・と願いながら、【妖怪めんどう臭い】に骨の髄までしゃぶられ尽くしてだらしない人間なのです。

自分の今を嫌だと思いつつ、だけど変わることが出来ないこの状態で読んだこの本は、本当に本当に面白かった。雨宮まみさんの「こんな風に思う」に共感し、「わかるわかる!!!!!」「そうなんだよなぁ~」って何度も思った。

なのに、この本で紹介される雨宮まみさんの写真はとっても素敵で・・・(涙)

夫とコドモと家族3人、今のアパートで(無駄な)物にぎゅうぎゅうに押されて生活しています。もちろん自分の部屋もないし、本棚も。独身時代に買った本やCDは、ダンボールに入ったまま、押入れに入れてあります。

洋服ダンスもなく、ハンガーラックにぎゅうぎゅうに洋服がかけられ、重みで傾いた状態。そうなると奥の方の洋服を取り出すのが億劫で手前の3着ぐらいを何度も着回す生活。育てている植物は枯れかけている・・・。

何を捨てたらいいのか、それをどんな風に収納すればいいのか、全然分からなくて途方に暮れている毎日。「この家は疲れるな」と思いながら日々ネットやゲーム、読書などを優先させてしまう日々。

基本的にインドアで家で過ごす事が好きなのだから、家が一番居心地が良いように持って行きたい気持ちは、ある。

自信がないのは部屋だけではない。
ファッションセンスも、コミュニケーション能力も、気が利かないことも、料理が下手な事も、全部、全部、全部、自信がない。

引っ越せば、何か変わるのかな・・・。むしろ引っ越しぐらい大きな事が無いと変われないのかも?

今はそんな心境で静かに、汚い部屋で過ごしています。

雨宮まみさんが、この『自信のない部屋へようこそ』以降、どんな風に過ごしていくのかを、引き続き見ていたいなぁ、という気持ちでいっぱい。

 

 

水素水をお茶の代わりに飲んだら、体重が・・・

変わるわけなかろうが。今までどおりカロリー摂取してるのに。
ちなみにコドモのアトピーだって、治らなかったわい。

ホントに、Twitterブログ界って同じネットの世界とは思えないほど真逆の情報が飛び交っていて面白い。

愛読していたブログで水素水が推されるようになってから、そう言えば、足が遠のいているわ・・・。

今ぐんぐんネット上で目にする「水素水」。
私は4年前に、パウチの物を水やお茶代わりに日常的に飲んでいたし、水素水のウォーターサーバーも自宅に置いていた過去があります。

理由は、元夫の”商材”。

元夫が他人に紹介したり商品を売る事で利益を得るネットワーカーとしての商材の一つだったので、家にも導入していた。

夫曰く、「肌がキレイになる」「水素を取り入れる事で身体が疲れにくくなる」「細胞が水素で活性化されて痩せる」などと言い、私とコドモにすすめていたので親子で毎日飲んでました。

もちろん、私自身痩せるでもなく、コドモのアトピーがそれで良くなる訳でもなく、疲れにくく感じる事もなく、正直、無駄に浴びるように飲んでいましたが、何にも実感を得られなかった・・・というのが私の感想です。

月日を経て、愛読していたブログで「水素水」が紹介され始め、ネットで目にするようになって、「あ、今来てるのかな?」なんて感じております。

自身が経験して、「何も効果が感じられなかった」と思っている物がブログ界で盛り上がっているのを阿藤快のような「なんだかな~」なきもちで眺めている中で、Twitter界に現れた「水素って・・・www」って言う感覚の方が実にしっくり来るなぁって。

そんな時にコチラの記事がTwitterで流れて来まして!!!

www.02320.net

笑ってしまった・・・。

 

でも実際、試してみたから「私には効果が無かった」と思えるし、ブログ界で盛り上がっている「水素水効っく~~~~!!!!」っていう感じも冷静に見ていられるけれど、知らなかったら、「私も○○さんがイイって言ってるから・・・っ!!!」とかで普段の水の5倍ぐらいする物を欲していたんだろうなぁ・・とか。

ネット界、特にfacebook界やブログ界で盛り上がっている面を見た時に、必ずTwitter界ではそれに反論する意見を目にする。
それを見て、違う角度からの情報を合わせてから、自分の中で何を選ぶのか、調べるのか、そういう物を決めて行きたいなぁと思う。

それには、今私が選んで勝手にフォローさせて頂いている人達の発信がものすごく多角的に見ることが出来て、冷静に、的確に伝える事が出来る人たちのおかげだなぁ・・・と、自分がフォローしている方々を改めて見て、自分のTLってめっちゃイイな!!って思う次第です。

違う方をフォローしたら、違うTLから世界がまた違って見えるんだもんな。

 

自分のタイミングで

ここに来て、ようやく分かった事がある。

私は、他人のタイミングで動かされる事、動く事が非常に不快に感じるという事。

なので、来客の都合によって業務のボリュームが変わる接客や受付等の仕事が苦痛だった。それはずっと、「人間嫌いだから」「コミュニケーションを取るのが嫌いだから」と思っていたけれど、どうやら違うみたい。

基本的にパソコンの作業が大好きなので、仕事を探す時は事務仕事が出来る事をメインに探すけれど、事務仕事って、仕事のボリュームが決まっているのが性に合っている事に気づいた。

いくら忙しい時期でも、「○月だから忙しい」「月末だから忙しい」と、予め分かっていると気持ちは乱れない。
だけど、急に「この仕事を」とねじ込まれると、仕事のボリュームで日々の進捗の予想を立てていたものが突然崩れると、同じ事務仕事でもものすごくストレスが溜まる事に気づいた。

やるべき事が決まっていて、それを淡々と粛々と精度をあげてこなす。
慣れてくるとそこに、少しの余裕が生まれるぐらいがとても心地よい。

その余裕が生まれた所に新しい仕事を入れてステップアップをしていく・・・というのが理想なんだな、と。

なので、コドモの都合中心にまわる子育て、それも特に乳幼児期は本当にしんどかった。我が子とは言え、自分以外の人のタイミングで自分が動かなくてはいけない「育児」が本当にしんどかった。

肉体的疲労もそうだけど、自分のタイミングで進まない事がものすごいストレスだった。

今、事務仕事をしているけれど、その内容が全く変わってしまう不安定な内容で、その度にイチから覚え直し、自分の流れを作って、流れに乗った頃に仕事内容を変えられる・・・というのは本当に苦痛。

ここに来て、自分の”何が苦手”なのかというのがTwitterを通じてハッキリ理解出来たのが非常に良かった。
漠然と「育児しんどい」と思う事と、何が自分の苦手ポイントかを把握しているかでは、強みが全然違うような気がしている。

「これは苦手だ」と知る事で対応が出来る事がある、第三者にヘルプをお願いする事ができると思うと少しホッとする。なので、接客が苦手なのではなく、事務仕事が好きなのではなく、決められたルーティンをしっかりこなす事が好きで、突発的な事象が増える事が苦手、という事がよく分かった。

Twitterで、色んな人が考えを発信していく中で、自分が言葉に出来なかった気持ちが実に理路整然と文字になっているのを見て救われる事があるのだ。